その日の仕事が終わって家路の途中、クタクタで足が棒に。黒スーツに革靴、PCバックをぶら下げて。まさに疲れたサラリーマンの様相。ぼくは自販機で飲み物を買い、新宿の“世界堂”の裏路地でレンガに腰掛けて少し休憩していた。

ふと目線を上げると、数メートル先で、男がこちらへカメラを向けていることに気づいた。

「パシャ」

え?今、真正面でカメラ目線の僕が記録された気がするんですけど。。

その男は、僕と目が合うと、カメラをさっと隠してどこかへ歩き出した。どうやら、僕の様子を勝手に撮影していたらしい。

「おい」

と声をかけると、男は猛ダッシュで走り出した。あんなにまで死にものぐるいで逃げる大人の姿を、ぼくは後にも先にも見たことがない。

“あの先を左に行かれると、入り組んだ路地で見失うかもしれない”

ノートPC入りのカバンをがっちり小脇に抱えてとにかく追いかけた。文字通り、一歩間違えて転んだりしたらPCの大破は免れない。しかし男は運良く右へ曲がった-。

“よし、この100mで追いつける!”

甲州街道と明治通りの交差点の人混みを目指すつもりだろう。だがそこまで伸びる道はほぼ直線。横道は一箇所しかない。やつがこのスピードでその横道へ曲がるのは不可能。

と、気づけば、久々に本気で走れるこの状況が、ほのかに嬉しくなっていた。差が縮まるにつれて、男は奇声をあげた「わー!たすけてぇ〜!」と。

助けて?”

男は、足ではもう逃げ切れないとおもったのか、路駐するタクシーに乗り込もうとした。しかし、ドアが開く間に追いつかれることを悟って、その場にへたり込んだ。男は地べたで土下座して、


許してください!助けてください!申し訳ありません!」と謝ってきた。

ぼくが「なんで逃げるの?」と聞くと

殺されるとおもって!怖くて逃げてしまいました!」と。

いや、殺されるって。。。“おい”って言っただけじゃんか。。まあ、新宿で黒いスーツの男に淡々と追いかけられたら、死が脳裏をよぎってもおかしくないのか。。本気で命乞いされたのは、生まれて初めてだった。

「とりあえず、写真のデーター消して」と言うと、男はその場でカメラの背面の蓋を開けた。そのカメラは、

35mmフィルムのライカ”だった。

男は震えながら迅速にフィルムを引っ張り出し、感光させた

ええええ、、、。

その瞬間、ぼくは様々なことを悟った。。

つまり男は、純粋に写真を撮っていたということではないのか。このご時世、フィルムのライカを持ち歩くともなると、カナリのこだわりである。しかも新宿で身の危険を犯してまで写真を撮っている。つまり、かなりのコストとリスクの果てに、僕はその被写体に選ばれたのである。

なんだかそんな彼の存在が、むしろ愛おしくてたまらない。もはや友だちになって話がしたい。得も言われぬ気持ちになった。

そうだ。今、いくつかの作品が消失してしまったのではないか。男から渡されたこの感光してしまったフィルムには、どんな景色が写っていたのであろうか。もうとり戻せないその瞬間。世界のるつぼ、新宿というカオスの街で、彼は何を見たのか。どんな世界観で捉えたのか。正直見たかった。

まあ、仕事に疲れた僕の姿が写っているんだろうけども。

帰り道、いつもの街が少し違って見えた。

PS.
殺そうと思わなかったけど、折角の機会だから半殺しにしようと思って追いかけてたのはここだけの話。自称写真家のみなさんは、気をつけてね!